石垣島で「限界」を知り、板橋で「耐性の窓」の意味を知った

調子がいいことと、安定していることは違う

調子がいいことと、安定していることは違う。

二回のフルマラソンを走って、私はそれを体験として思い知った。

石垣島では、身体の限界を知った。

板橋では、自分を見失う怖さを知った。

どちらも三十キロ前後で脚が死んだ。

けれど、同じように壊れた二つのレースは、私にまったく違うことを教えてくれた。

一つは、人の気合いや準備にも越えられない身体の限界があるということ。

もう一つは、調子のよさと安定は別物であり、自分の力と、自分が無理なく安定していられる範囲、つまり「耐性の窓」を見失ったとき、人は思っている以上に簡単に崩れるということだ。

そしてこの気づきは、走ることだけで終わらなかった。

支援の仕事にも、そのまま重なっていた。

福祉の仕事に興味がある人にとっても、これは無関係ではないと思う。

支援の仕事は、知識や熱意だけでなく、自分の状態を整える力が土台になるからだ。

石垣島で知った、身体の限界と段階

一回目のフルマラソンは石垣島マラソンだった。

初マラソンだったこともあり、自分なりにかなり練習し、準備もして臨んだ。

ここまでやったのだから、何とかなるのではないか。そんな気持ちも、どこかにあった。

けれど、フルマラソンはそんな甘い期待をあっさり壊した。

三十キロを過ぎたあたりから、脚が一気に終わった。

しかも石垣島は登り坂がえぐい。

まだかなり先があるのに、脚だけが完全に終わってしまった。心肺はまだ多少いける。気持ちも前へ行こうとしている。なのに脚が、それを拒否する。

股関節、膝、脛、足首、アキレス腱、足の裏。

とくに左側の下半身全体に、言葉で切り分けにくい激痛が走った。ひとつひとつが痛いというより、脚全体が「もう無理だ」と叫んでいるようだった。

フルマラソンは、気合いでは押し切れない。

どんなに準備をしても、実は限界がある。そして、段階がある。

私は石垣島で、その当たり前のことを、あまりにも痛いかたちで思い知った。

板橋で知った「耐性の窓」の意味

二回目は板橋シティマラソンだった。

今度は経験がある。しかも河川敷の平坦コースだ。石垣島のような登りも少ない。呼吸もまったく苦しくない。

だから、今度は大丈夫かもしれないと思った。

実際、走り出しはかなり軽快だった。

身体はよく動く。呼吸も乱れない。周囲の流れにも乗れている。

「今日はいける」

そう思った。

でも、その感覚が落とし穴だった。

今振り返ると、私の身体が受け止められるペースは、たぶん六分二十秒/kmくらいだ。

なのにその日は、最初から五分五十五秒から六分〇〇秒くらいのペースで入っていた。

呼吸が苦しくないことを理由に、今日はこのままいけると自分に言い聞かせていたのだと思う。

けれど、それは安定ではなかった。

調子のよさを、実力と勘違いしていた。

もっと言えば、自分の「耐性の窓」を越えていることに気づかないまま、気持ちよく走っていた。

板橋でも、三十キロ手前で脚が死んだ。

呼吸はまだいける。気持ちも折れていない。なのに脚だけが壊れた。あと十二キロを残して、走ることができなくなった。

痛くなってからようやくわかった。

調子がいいことと、安定していることは違う。

真ん中にいて安定していることと、気分よく走れていることは違う。

板橋で私が学んだのは、ペース配分の失敗だけではない。

「耐性の窓」の意味だった。

乱れはうつる。安定もまた、うつる

板橋で、もう一つ強く印象に残ったことがある。

人は思っている以上に、傍にいる相手の状態に影響を受ける、ということだ。

5km地点くらいから、私は安定した走りをしている人の後ろにつくことにした。

その人は、音で言えば「ス~っ」という感じだった。呼吸は聞こえない。足音もしない。上下動も少なく、リズムがまったく乱れない。

無理をしている感じがまったくない。こちらまで落ち着いてくる感覚は不思議だった。

ああ、安定している人というのは、こういう人のことを言うのだと思った。

速いとか遅いとかより前に、そこに「乱れないリズム」があった。

その一方で、斜め後ろからバタバタと激しい足音を立てながら走る人がいた。

ゼ~~ハ~~と激しい呼吸の音、傾いた落ち着かないフォーム。

最初は並走していたけれど、この人の近くにいたら自分までおかしくなる、と直感的に悟った。

実際、その通りだった。

呼吸も気持ちも、落ち着かなくなる。焦りのようなものがじわっと移ってくる。

そこで私は、逃げるようにペースを上げて距離を取った。けれど、そのことで心も体も余計に消耗した。

今ならわかる。

乱れはうつる。安定もまた、うつる。

それは目に見える技術ではない。

けれど確かに、呼吸や足音やフォームを通して、相手の状態は伝わってくる。

そして、人は自分で思っているよりもずっと、それを受け取ってしまう。

自分の安定を守るためのバウンダリーの必要性にも気づいた。

支援者に必要なのは、真ん中に戻れる力

この体験は、支援の仕事にもそのまま重なった。

落ち着いた人が傍にいるだけで、心も体も驚くほど安定する。

逆に、焦っている人、呼吸が浅い人、身体に力が入っている人、結論を急ぐ人の近くでは、こちらまで落ち着かなくなる。

支援は、知識や技術だけでできている仕事ではない。

支援者がどんな状態でその場にいるか、そのこと自体がすでに支援の一部なのだと思う。

ここでいう安定とは、調子がいいことではない。

いつも元気で、勢いがあって、前向きであることでもない。

安定とは、真ん中にいることだ。

調子が良かろうが悪かろうが、自分の真ん中を見失わないこと。

自分の力を知っていて、自分の耐性の窓を越えないこと。

自分の耐性の窓を見極められている人は、安定している人だ。

支援者に必要なのは、立派な言葉より前に、その安定なのだと思う。

相手を落ち着かせようとする前に、自分がどれだけ真ん中にいられるか。

相手の波に飲まれないためには、まず自分のプレゼンスが必要なのだ。

そして、そのうえで相手とのあいだに適切なバウンダリーを保てることもまた大切なのだ。

だからこそ福祉の仕事は難しい。

けれど同時に、自分の在り方そのものが誰かの安心につながる、とても深い仕事でもある。

福祉の仕事は、まず自分を整えることから始まる

そして私は、まだ安定していない人だと思う。

調子がいいと、調子に乗る。

周囲の流れに引っ張られる。

自分の受け止められるペースを見失う。

その結果、後から大きく崩れる。

石垣島では、身体の限界を知った。

板橋では、耐性の窓の意味を知った。

二回のフルマラソンは、脚を鍛える場である以上に、自分の未熟さを教えてくれる場でもあった。

けれど、だからこそ、この経験をただの失敗で終わらせたくない。

走るときも、支援に立つときも、本当に必要なのは「今日は調子がいい」と思えることではなく、自分の真ん中に戻れることなのだと思う。

支援に立つ者ほど、自分の限界と耐性の窓、そして相手とのあいだのバウンダリーを知らなければならない。

福祉の仕事に興味がある人へ。

支援とは、誰かをうまく変えることよりも、まず自分の真ん中を整えることから始まる仕事なのだと、私はマラソンを通して学んだ。

次のフルマラソン・チャレンジは、8月23日(日) 千葉県『柏の葉爽快マラソン』だ。

灼熱の中、今度はどんな自分を発見できるか楽しみだ。

それでは、今日はこのへんで

アディオス・アミーゴ

 

追伸

二回のマラソン、一応、歩きながらも何とか完走できました。